北斎の大きな波を見るとき、どこに目が向くでしょう。崩れかけた波の先、舟の細い線、奥に小さく見える富士山。その一枚は、絵師が紙へ直接描いて完成させた絵ではありません。多色の木版画では、線や色を版木に分けて彫り、同じ紙へ摺り重ねます。

完成した絵を、輪郭と色の面に分けて見てみましょう。制作の順序が分かると、同じ図柄の版画に残る小さな違いも、調べる手がかりになります。

大きく立ち上がる波と三艘の舟、その奥に小さな富士山を描いた北斎の神奈川沖浪裏
葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》、1830〜32年ごろ。メトロポリタン美術館蔵、JP1847。波の輪郭と、濃淡の異なる青い面を分けて見てみてください。
The Great Wave — JP1847 · Katsushika Hokusai / The Metropolitan Museum of Art, H. O. Havemeyer Collection, Bequest of Mrs. H. O. Havemeyer, 1929 · Public Domain。1600×1076へ縮小・WebP変換。トリミング・色調整なし。

一枚の浮世絵を、誰が作っていた?

「北斎の版画」という呼び名から、北斎一人が描き、彫り、摺ったように思えるかもしれません。メトロポリタン美術館の解説は、制作に関わる四つの役割を挙げています。絵を考える絵師、版木を彫る彫師、紙に摺る摺師、そして企画や販売を担う版元です。

版元は、できた作品を店に並べるだけの存在ではありません。何を題材にし、どのような品質で作るかにも関わります。絵師が描いた線を彫師が木へ移し、摺師が絵具と紙を使って仕上げる。作品の見え方は、複数の仕事がつながって生まれます。

この分担を知ると、「この細い線を誰が描いたか」の先に、「線を残すように誰が彫り、どう紙へ移したか」という問いが続きます。図柄を考えることと、その図柄を何枚も作れるようにすることは、別の技術なのです。

細い線は、木に溝を彫って作る?

木版画の線は、木に彫った溝へ絵具を詰めて写すのではありません。紙に写したい線や面を高く残し、その周囲を彫り下げます。 残った部分に絵具が付き、紙に接することで像が移る凸版の仕組みです。

アダチ版画研究所が紹介する制作工程では、下絵を版木に貼り、墨の線の両側へ刃を入れます。次に、色を付けない部分をさらって取り除きます。こうして輪郭を摺るための「主版(おもはん)」を作ります。

細い線の両側を彫る、と考えると難しさが具体的になります。描かれた線をなぞるだけではなく、印刷するための細い木の部分を残さなければなりません。線が曲がる場所でも、途切れる場所でも、何を削り、何を残すかが紙の上の形につながります。

冒頭の波の先を見ると、細い輪郭線がいくつも枝分かれしています。絵として眺めたあとに、「この線を残すように木を彫る」と考え直すと、同じ形の見え方が変わります。

色を替えるたびに、何をしている?

多色摺りでは、色を受け持つ版を使い分けます。摺師は版木に絵具を広げ、紙の位置を合わせ、紙の裏から「馬連(ばれん)」でこすります。紙を外して確かめ、次の色へ進みます。

位置合わせの基準が「見当(けんとう)」です。アダチの実演では、二つの目印へ和紙を合わせます。輪郭の版と色の版が別でも、紙を置く位置を共通の基準にそろえられます。

同工房の《神奈川沖浪裏》の実演は、輪郭線から始め、舟、空、波の色へと八段階で進みます。舟には黄色と鼠色、波には水色と濃い藍色。完成像では一つの舟、一つの波に見える部分が、制作中には別々の色の仕事に分かれています。

ここで紹介した順序は、現在の工房による復刻制作の例です。すべての浮世絵が八回で完成するという意味ではなく、摺る回数から版木の枚数をそのまま数えることもできません。完成した画面の色数と、実際の作業の段階を区別して見る必要があります。

同じ図柄の二枚から、何を比べられる?

次の研究図では、北斎の《相州江の島》の二枚が上下に並んでいます。右側は、富士山と木の一部を拡大したものです。まず山の斜面を追い、次に枝の輪郭を見てください。赤枠は拡大した場所、矢印は比較する箇所を示しています。

北斎の相州江の島の二枚を上下に並べ、右側に富士山と木の輪郭線を拡大した研究図
Vermeulenら(2020)の図7。上はJP22、下はJP2977。右の矢印は輪郭線の比較箇所です。原図の赤枠・矢印を保持しています。細部は出典の大きな図でも確認できます。
Vermeulen et al. (2020), Fig. 7 · Marc Vermeulen et al. / Heritage Science. Works by Katsushika Hokusai, The Metropolitan Museum of Art. JP22 — Rogers Fund, 1914; JP2977 — Henry L. Phillips Collection, Bequest of Henry L. Phillips, 1939 · CC BY 4.0。1600×1485へ縮小・WebP変換。図の配置・範囲・色は変更なし。

2020年の研究は、下の作品の線に見られる版木の傷みを、上の作品より後に摺られたと考える根拠にしています。同じ図柄だからこそ、対応する場所を比べられるのです。

ただし、写真の色の濃淡だけで新旧を決めているわけではありません。論文は、線を観察する方法に、青い色材の分析を組み合わせました。

青い色を測ると、制作順まで分かる?

研究チームは、五つの機関が所蔵する北斎《冨嶽三十六景》の版画を調べ、退色などの影響が大きいものを除いた141点を統計分析に使いました。測ったのは、青い輪郭線が波長ごとにどれだけ光を反射するかです。「FORS」と呼ばれる反射分光法で、色材を削り取らずに調べます。

青には藍とプルシアンブルーという異なる色材が使われています。研究者は、同じ制作のまとまりでは両者の混ぜ方も似る、という仮説を置き、反射の特徴から九つの群に分けました。さらに線の傷みなどを照合し、群同士の前後関係を検討しています。

ただし、九つの群すべてを一本道に並べられたわけではありません。一群は位置が定まりませんでした。この分析が示すのは、調べた作品群の制作順を考える手がかりであり、一枚の制作年を自動で決める方法ではありません。

波の輪郭、舟の色、細い枝の線。画面を作る要素に目を近づけると、そこには絵柄だけでなく、彫り、摺り、使われた材料の痕跡があります。一枚を楽しんだあと、もう一枚と同じ場所を比べることが、作品を深く見る入口になります。