楽しい一日と、よく生きた人生。同じ「幸福」という言葉を使えても、見ているものは違います。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は、どのような生き方が人間にとってよいのかを問う本です。
幸福に当たる「エウダイモニア」を、よい気分だけで読み替えると、彼の議論を見失います。原典をたどり、最後に現代の心理学が幸福を測る方法と比べてみましょう。哲学と心理学では、問いの立て方も、答えの確かめ方も異なります。
なぜ幸福を「活動」と考える?
アリストテレスは、幸福を何か別のものを得るための手段ではなく、それ自体のために選ぶ目的として考えます。では、その中身は何でしょうか。第1巻の議論では、理性に関わる働きを人間に固有の活動とし、それを優れた仕方で行うことへ話を進めます。
そこで重要になるのが「徳」です。単に親切なことをするという狭い意味ではなく、人間の働きをよく果たすための優れたあり方を指します。ここには、行動や感情に関わる性格のよさだけでなく、考える働きのよさも関わります。
持っている能力と、それを実際に使うことは違います。彼は、よい性格を備えていても、眠っているなどして活動していない状態と、そのよさを発揮している状態を分けます。幸福を後者として考えるからこそ、「どんな人か」だけでなく「どう生きているか」が問題になるのです。
また、一日の出来事だけでは人生の幸福は決まりません。原典は一生という長さも求めています。その日の気分を尋ねる問いと、人生をどう営んだかを考える問いには、時間の幅にも違いがあります。
よい行いは、知ればできるようになる?
第2巻では、性格に関わる徳は習慣を通して育つと論じられます。彼が挙げるのは、建築をすることで建築家になり、楽器を奏でることで演奏家になる、というたとえです。公正な行いをすることと、公正な人へ育つことも、この関係で説明します。
ただし、回数を重ねれば自動的によくなるわけではありません。同じ楽器の練習から、よい演奏家も、よくない演奏家も生まれると彼は述べます。何を、どのように繰り返すかが問われています。
さらに、行為の外形だけで十分とも考えていません。何をしているかを知り、その行為自体のために選び、安定した性格から行うことが求められます。たまたま正しい結果になったことと、公正に判断して行ったことを分けているのです。
ここから「毎日何回すれば幸福になる」という練習法を取り出すことはできません。原典が説明するのは、知識と実践、選択と性格の関係です。
「中庸」は、いつも真ん中を選ぶこと?
中庸(ちゅうよう)は、多すぎることと少なすぎることの間に、その場にふさわしいあり方を求める考えです。しかし、二つの数字の平均を取るのとは違います。
第2巻の食事の例で、アリストテレスは、多い量と少ない量の中間を決めても、それが熟練の競技者と初心者の両方に適するとは限らないと説明します。必要なのは、一律の中間点ではなく、人や状況に即した判断です。
怒りや恐れにも、強さだけでなく、いつ、何に対して、誰に、何のために、どう表すかという条件があります。たとえば「怒りを半分にすればよい」とするだけでは、その怒りがふさわしいかを考えたことにはなりません。
中庸は、判断を省くための「ほどほど」ではありません。 しかも彼は、すべての行為に適度な量があるとはせず、窃盗などはそれ自体が悪い行為として挙げています。何でも少量ならよい、という読み方にも注意が必要です。
心がけさえよければ、幸福になれる?

Aristotle with a Bust of Homer — 61.198 · The Metropolitan Museum of Art, Purchase, special contributions and funds given or bequeathed by friends of the Museum, 1961 · Public Domain。1400×1477へ縮小・WebP変換。トリミング・色調整なし。
この絵の人物は、豊かな衣装をまとい、金色の鎖を身につけています。所蔵館の解説は、名声の意味を考える作品と位置づけ、アリストテレスが自分の世俗的な成功と、ホメロスの後世まで残る業績を比べているのかもしれないと読みます。これは17世紀の絵の解釈で、古代の幸福論そのものを図解した資料ではありません。
では、原典は外から得るものをどう扱うのでしょうか。第1巻では、友人や財産なども、よい行為を実際に行うために必要だとされます。心の中が整っていれば、周囲の条件は一切関係しない、という立場ではありません。
一方、幸福の目的は、財産や評判を際限なく増やすこととも区別されます。よく行動できる条件があることと、その条件自体を人生の最終目的にすることは別です。彼の幸福論には、本人の選び方と、本人だけでは用意できない条件の両方が入っています。
人に親切にすることが、幸福論のすべて?
第10巻まで読むと、もう一つの論点が現れます。アリストテレスは、最も高い幸福を、知性が真理を考える活動、すなわち「観想(かんそう)」に結びつけます。
ここでの観想は、気持ちを落ち着かせる手順のことではありません。知ることや考えること自体に価値を認める知的な活動です。彼は、他の成果を得るためではなく、その活動自体のために選ばれる点などを重視します。
人間関係の中で徳を発揮する生活を論じながら、知的な活動には特に高い位置を与える。この違いを省くと、彼の幸福論が「よい行いを重ねよう」という一つの助言だけになってしまいます。
ただし、考える人にも生活の必要があります。彼も、身体や食事などの条件が不要だとは述べていません。知的な活動を尊ぶことと、人間の暮らしから切り離すことは同じではないのです。
心理学では、幸福をどう測る?
現代の心理学にも、気分や生活への満足だけでは捉えにくい側面を調べる研究があります。Ryffの1989年の研究は、自己受容、他者とのよい関係、自律性、環境に対処する力、人生の目的、成長という六つの側面を質問項目にしました。
若年・中年・高齢の計321人が自己評価し、従来の生活満足度や感情などの尺度と比較しています。他者との関係、自律性、成長などは、従来の指標との関連が比較的弱いという結果でした。異なる問いを尋ねれば、必ずしも同じ側面を測るわけではないことを示す研究です。
ただし、対象は比較的健康で、教育水準が高く、経済的に恵まれた人々でした。質問への自己報告を比べた観察研究であり、ある行動をすれば幸福になると確かめた実験ではありません。六つが万人に共通する唯一の分類だと決着した研究でもありません。
二つの問いの違いを、整理してみます。
| 哲学の問い | 心理学の問い |
|---|---|
| どんな活動に価値があるか | 何を質問して測ったか |
| なぜそれをよい生き方と呼ぶか | どの対象で、どんな関連があったか |
| 何を人生の目的にするか | 測定結果をどこまで広げられるか |
この表は、この記事の議論を整理したものです。哲学が価値について論じることと、心理学が回答や行動を調べることは、同じ作業ではありません。現代の尺度をそのままアリストテレスの採点表にしたり、その研究結果だけで古代の哲学が証明されたとしたりはできません。
「幸福」という言葉を見たとき、気分、生活の評価、よい生き方のどれを問うているのか。そこを確かめるだけでも、読んでいる議論の輪郭はずっとはっきりします。
